吉見町,武蔵松山城跡

武蔵松山城跡の概略

 武蔵松山城跡跡跡は、比企丘陵の先端に築かれた北武蔵地方屈指の平山城で、大正14年に県指定史跡となる。平成20年には、すでに国指定であった菅谷館跡(嵐山町)に、杉山城跡(嵐山町)、小倉城跡(ときがわ町・嵐山町・小川町)とともに加わり、比企城館跡群として国指定史跡となる。城の周囲は市野川が形成した低湿地帯が広がり天然の要害を形成している。「武蔵松山城跡跡」と呼ばれる城は、愛媛県(伊予武蔵松山城跡跡)・岡山県(備中武蔵松山城跡跡)に存在することから、他の武蔵松山城跡跡と区別して「武州武蔵松山城跡跡」「武蔵松山城跡」と呼ばれることもある。現状の城の縄張りは、後北条氏による大改修によって形成されたものと思われ、本曲輪を初め多くの平場や空掘などが大変良好な状態で残っている。  「鎌倉大草紙」には、応永23年の鎌倉六本松の合戦において「武蔵松山城跡跡主上田上野介討死」とあることから、応永年間(1394~1428)には武蔵松山城跡跡は存在していたと推定される。しかしながら、この頃の文献資料は極めて乏しく詳細なことは不明である。歴史的には、室町幕府の要職にあった公方足利氏、扇谷・山内両上杉氏が衰退し、戦国大名の代表とされる後北条氏が興隆する時期からその名を中世史に登場させたと言える。  天文年間(1532~1555)以降の文献資料は豊富で、その中には、扇谷・山内両上杉氏、後北条氏、甲斐の武田氏、越後上杉氏の名も見られる。特に、天文6年(1537年)に小田原の北条氏綱が江戸城・川越城を落とし武蔵松山城跡跡を攻めたことは有名である。その後も後北条・越後上杉などによる度重なる合戦によって支配者が頻繁に変わったが、後北条勢力下の上田氏の支配下にあることが多かった。武蔵松山城跡跡をめぐる攻防は大変激しく、ここが北武蔵地域の要所であったことが伺える。天正18年(1590)、豊臣秀吉による関東攻略の際、前田利家・上杉景勝などの軍勢が攻め落とし、小田原に本拠を構えた後北条氏は滅亡した。その後、徳川家康が関東に入り松平家広を武蔵松山城跡跡主としたが、弟の松平忠頼のときに浜松に移封され慶長6年(1601)に廃城となった。

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